創業者プロフィール

 

小島 淳 

生年月日 1969年11月1日 46才 

独身

 

まんとみ幼稚園 1973~1976

幼稚園は、東京亀戸にある、まんとみ幼稚園

両親が当時共働きで 乾物屋を経営していた関係で 迎えも遅く、

3年間幼稚園通いとなった。

この時3年間の担任?が 石田先生  自宅にも遊びに行ったことがあり、隣に相撲部屋があったのを覚えている。

この先生は、幼稚園の中で1番若かったといっても もちろん 14~15才以上は上であったであろう。

この先生と、字の練習の名目であったが、約7~8年程度 文通を この先生がお嫁にいくまで、続いた。

 

中央区久松小学生 1976~1982

小学校に行くと給食という制度があったが、基本は、受けていない。

生まれた時から、アトピー性皮膚炎と気管支喘息のおかけで、

食事制限をさせられた、 これは、中学卒業まで続く。

ただし、この給食を食べられない事については、

同級生も先生も当時は、理解が低く そのおかげで、

結構いじめにあった経験もある。

実際中学になるまで、約1ヶ月1回の治療(と言う注射)を受けていたが、

治る見込みが無いとの事で、医者を拒否した。

その後3年で食事制限は解除。

独自理論で組み立てて治療を行ったが、結果が出たため正しかったと思う。

今現在 約10年は、風邪一つひかない体で、好きな物を食べている。

話はもどるが、この学校では、理科室が非常に設備が整っていた。

そのため、高学年になると、理科の事業で 毎回実験があった。

これが非常に面白かった。

透明な液体に黒いものを入れると 泡がでてきて、火をつけけると燃えるようなもの。

そのため、当時は、化学部に所属しており、理科の実験の準備なんかもやっていた。

後で思ったが、小学生に、濃硫酸や濃硝酸の希釈をさせて良かったのだろうかと疑問に思う。

これが、私にとっての化学の入り口になります。

ただ、小学校5年の時に、若干浮気をして、陶芸部に入って、

そちらにのめり込んだ時期がある。 多分、実家にいけば、その時の残骸がどこかにあるだろう。

 

中央区第四中学 1982~1985

中学一年の時に 千葉習志野市4中に 3ヶ月ほと転校していた。

当時、父が ラーメン屋をやりたいとの事になり、

なぜか千葉でして、3ヶ月で失敗して東京にもどってきた次第 今考えて見ると、場所が悪かった。

駅から遠い これが問題だったと思う。

私もそのうち 飲食を考えているが、駅前にしたい、いやでも、人通りがある場所でないと集客は非常にハードルは高い。

化学系中心てやっていたが、当時 NEC 8001だったと思うが、パソコン という名前が出てきた時代、

ゲームすらなかったため、当時I/Oとか アスキーの雑誌にのっていた、プログラムを意味もわからず入れて、

動かないため、間違っている処を修正するため、プログラム言語を覚えて、自分で、

プログラムをつくったりするのがトレンドであった。

もちろんパソコンを買える裕福ではなかったので、

電気屋の展示品やたまり場でそんな事を実施した。

ITの有名人たち、スティーブジョブス、ビルゲイツ、最近名前を聞かないが西さんなんかの名前が

雑誌に出ていたのを覚えている。

 

東海大高輪台高校 1985~1988

中学の時の先生には、何故その高校と不思議に思われた。

当時中学卒業で、偏差値が65あったが、 当時高輪台はたしか55くらいだったと思うが、

もっと高い処を狙えとの話であったが、

当時は、プログラマーが1番よいかと思っていたため、こちらを選んだのです。

1学期の中間で学年で10位以内をとったため、かなりなめてしまい、

期末では、200位近くまで、落ちてしまった。

復活するのは、3年までかかってしまった。 ここでは、プログラミングの勉強をしてが、

主な言語はFORTRAN C言語の方が当時良かったと思うが 自分では、知るはずもなく。

しかし、ここで、高校時代に同級生が2名ほど、中退した。

これは企業にスカウトされたとの事 この後思ったが、プログラマーは、

10代の柔らかい頭じゃないと、出来ないのではと思った。

ただし、この時代に、設計の基礎やプログラムの組み方について、学んだ事が社会人で非常に役立った。

 

東海大学 工学部 工業化学課 1998~1992

また、化学の世界にもどってきたのは、大学に入ってだか、工業化学課は、

主に、工場のプラントに 繋がる、基礎部分の勉強であるが、

内容については、非常に興味深いものであった。

いまなら笑い話であるが、実験で鎮痛剤をつくっている最中に、

天井を燃やしてしまった事があり、

会社に入ってきた大学の後輩がその話題を先生が行っていて、犯人が自分だと言った事がある。

この時チャンスとなったのが、東京大学への外研制度に選ばれた事であろう。

たまたま 理科大卒の大江先生の紹介で、東京大学の工学部で、卒業研究を受ける チャンスが訪れた。

 

東京大学 工学部  古崎研究室 

齋藤恭一 ゼミ 僕の出会いの中で、強烈なのは、このゼミの先生である、齋藤恭一先生である。

早稲田卒業であったため、東京大学では、教授になれないとの事で、勤務先を移り 現在千葉大学の教授である。

この先生は、今でも、定期的なお付き合いをさせていだいている。

非常に尊敬できる人である。特に、学生時代の言われた事が仕事についてから、

ボディーブローのように 効いてくるような、教え方である。

そして、他の大学の先生と違うと思うが、学生が研究したテーマの商品化にかなり力を入れているため、

この研究室から出た学生は、関連会社への就職している例が多い、残念ながら私は違う関係に進んだが。

この研究室のテーマは、放射線グラフト重合で、どんな素材でも機能性のある製品にかえてしまう。

中心研究としては、海水からウランの抽出であり、その派生技術がいろいろと市場に使われているものに利用されている。

長寿命化電池セル、超純水濾過機、半導体クリーンルームセル等に使用されて、

ウランの抽出も3~4年は実用していたが、東日本震災から、汚水の放射能物質の濾過に対して今、力をいれているようです。

有名な消臭スプレーにも実は、この研究所の技術が使われている。

 

フコク物産 1992~2015(静岡フコク出向2005~2014)

入社時に技術部に配属、主にプラスチックの成形関連の技術担当を実施していました。

どこまで行っても、商社でしたので 自分のプロフィールにも良く書きましたが、 

技術コーディネーターと 名乗っていました。

製品を作りたい、お客様と、製造会社の架け橋ですが、 その会社の真の技術を知らないと 

提案すら出来ないのが現状です。

そのため結構現場にも入り込んだ事もあります。

特に中小企業の社長から色々なノウハウを教えて貰った事で、

本では判らないような事を結構覚える事が出来ました。

特この業界の書籍は、古すぎて実践には役に立たない事も多かった。

前半の10年は、技術部として、他の営業マンと組んで製品の受注や立ち上げに携わって行った。

製品の立ち上げで苦労したものは、様々あるが、

プラスチックと金属を組み合わせた家具だろう。約54部品をほとんど1人で見ていたため

約3ヶ月は休みはなかったなんてのもありました。

この時代に、大学時代の技術を使った、グラフト重合を利用した、

消臭シーツを開発・販売した事があります。当時先生にも強力を得て、

老人介護施設に使用いただいたが、どうしも価格が高くなる事で二の足を踏んで最終的に

途中の販売店さんが中止とした。ただ、ご使用いただいた、

介護施設では、全床使っていただいて、部屋のにおいが取れたと喜んでいただきました。

これは、感謝される製品であったため、販売方法を考えれば、再度トライ可能と思っています。

中間の頃から、携帯電話のブームとなった関係があり、携帯の飾り部品が多くなった。

それこそ、顧客から、こんなものが欲しいと、メモ程度の図面で、価格と作り方を模索して、

価格と作り方の提示をして受注するという事が多くなってきた。

特にめんどうになるのは、成形、塗装、印刷、蒸着等の複合技術の知識がいるのと、

1番重要なのは、どのように工程間をつなぐのかが重要てした。

そのため、受注数も多くなると、簡単にキャパオーバーをしてしまい、

ピークは2億/月を5人で実施していたが、 トラブルが重なってしまう悪循環が発生していた。

そんな時に工場の責任者後退となった関係で、改善活動のため、

拠点を伊豆の工場に移し活動していたが、 当時の上司(工場長)が病気で他界したことで、

No.2の仕事で製品改善をしていたことで、工場長に任命された。

ただ、この立場にならないと見れないものもあり、現状が把握できた。

この工場の改善については、エリアフ・ゴールドラットの提唱する、”制限法”が有効に使用できた。

言葉だけは、非常に簡単で、全体最適化とボトルネックの解消であるが、

これをいろいろ工場のレイアウトや システムに応用した。 その時に人の管理ソフトを開発した事で、

複雑な工程の組み合わせて、どの製品が利益が出て、どの製品が、

足 引っ張っているががわかり、改善に繋がった。

工場運営をしていると改善ポイントは、いくつもあるが、利益に繋がり影響のある、

改善は実際には、1つか2つ であり、それだけやれば、利益改善につながるのです。

ただ、価値のある改善ポイントほど、若干いたみを感じる部分が多いのも事実である。

この時つくったソフトは、会社の改善のキーてあったが、今だから言うがすべて、

自腹で開発した そのおかけで、黒字化につながり、その後製品で、赤字になるものは無かった。

ただ携帯製品等の、中国化のあおりを受けて、絶対量が年々減少していった事もあり、

工場閉鎖の関係もあり、 フコク物産を退職した。

 

株式会社カッパーゲート 2015年2月 起業

工場の新しい仕事づくりの一貫として、いくつか、仕事の企画を立てていたが、その中で、 今回通販事業を選定した。

リサーチを実施して加齢臭入りシャンプーについての需要がある事が判り アミノ酸シャンプー 森かける香風の開発を実施した。

現在、販売に注力中 [今後展開予定のビジネス]

○消臭製品の開発

○工場の改善活動支援 工場管理ソフト販売

○会社、工場法律のWeb情報発信サービス

○音楽教育ビデオ販売

○ゼーベック効果を利用した、温泉熱発電

○植物工場